
前回までのあらすじ
飼い主・亜希に連れられて訪れた多頭飼育崩壊現場で、オレオは茶トラの保護猫ビスコと出会った。ビスコが語る「風の便り」——”ジークライオン”が動物たちを攫っているという噂を、オレオは自分でも確かめたいと決意した。
本編
帰宅してからの三日間、オレオは家の中で、いつも通りだった。
亜希の膝の上で喉を鳴らし、ごはんを半分残し(これは猫の礼儀だ)、夕方には窓辺でのびをした。ただ、窓の外を見る時間が、前より少しだけ長くなった。
ベランダの向こうに、同じ空がどこまでも続いている。その空のどこかに、ビスコがいる。被災地がある。ジークライオンがいる。
「オレオ、最近外ばっかり見てるね」
亜希は頬杖をついて、笑った。オレオの耳のあいだを、親指でそっと撫でた。
「先週のあの家の子たち、心配してる? ——みんな、保護施設に行ったよ。ハルもツキもノゾミも、大丈夫」

大丈夫。
その言葉は、亜希が本気で信じている匂いがした。だからオレオは、尻尾の先で「うん」と答えた。
けれど、大丈夫ではない子たちが、まだどこかにいる。オレオの胸の奥、あの夕暮れの金色の光の底に、欠けた耳が焼きついたまま離れない。
その夜、亜希はオンライン会議を夜遅くまでしていた。疲れ切って、網戸の鍵をかけ忘れたまま、ソファで眠ってしまった。
オレオは、しばらくその寝顔を見ていた。
首輪の鈴を、肉球で、そっと押さえた。からん、と鳴らさないために。

網戸は、猫一匹がやっと通れるだけ、薄く開いていた。夜気が、家の中で一度も嗅いだことのない匂いを運んできた。アスファルト、雨上がりの、濡れた木と花の匂い、遠くの電車、知らない人間の夜ごはん。亜希の髪の匂いとは、まったく別の、広い、広い、匂いだった。
「ごめん、亜希」
オレオは、心の中で、そう言った。
「ちょっとだけ、行ってくる」
住宅街は、知らない生き物だった。
昼間の窓ごしに見ていた景色と、夜の地面を歩くそれは、まったく別物だった。塀の影が黒々と伸び、自販機の明かりが青白く光り、どこかの家の換気扇が低く唸っていた。アスファルトは、思っていたよりも冷たくて、ざらざらしていて、肉球の柔らかいところに、小さな石の粒が刺さった。
オレオは塀の下を選んで歩いた。車が通るたびに、心臓が耳の中で鳴った。遠くでコンビニの自動ドアが開く音。笑いながら通り過ぎる高校生の制服のスカートの裾。自分の世界がこんなに狭かったのかと、歩くたびに思い知らされた。
やがて、住宅街のはずれ、電柱の陰。濡れた段ボールの匂い。ここから先は、裏路地と呼ばれる場所らしかった。
「——おい、坊主」

低い声が、背後から落ちてきた。
振り向くと、漆黒の大きな雄猫が、塀の上に座っていた。両耳に古い切れ込みがあり、尻尾は途中で折れ曲がっている。翠の瞳が、暗がりで二つの小さなエメラルドのように光っていた。
「首輪つけた坊ちゃんが、こんな時間に何の用だ」
オレオは、姿勢を低くして、喉の奥で小さく息を整えた。
「ぼくは、オレオ。ちょっと、探しものがあって」
「探しもの」雄猫は鼻で笑った。「裏路地で? 人間に連れて帰ってもらえよ、坊ちゃん。ここはおまえの国じゃない」
オレオは、しばらく黙った。それから、ゆっくりと言った。
「ビスコ、って、知ってますか」
雄猫の耳が、ぴくりと動いた。
翠の瞳が、一度細くなり、それから、ほんの少しだけ、やわらかくなった。
「……多頭崩壊から出た、茶トラの」
「はい。救助のときに、会いました。風の便りの話を、してくれて」
雄猫は、しばらく塀の上から動かなかった。夜の風が、彼の尻尾の折れた先をゆらした。

「カグラだ」と、彼はようやく名乗った。「路地を仕切ってる。ビスコの名前を出すなら、通してやる。ただし、条件が一つある」
カグラは、折れた尻尾の先を、月のない空へ向けてひと振りした。影の中の瞳が、値踏みするように、オレオの首輪の鈴を見た。
「はい」
「帰りたくなったら、言え。すぐに、家まで送ってやる。——子どもを迷子にはしない」
オレオは、首輪の鈴を、もう一度そっと押さえた。
「ありがとう。でも、帰るのは、ちゃんと確かめてからです」
カグラは、ふっと鼻を鳴らした。笑ったようにも、溜息のようにも聞こえた。
「……ついてこい。見せたいものがある。明るすぎて、おまえが泣くかもしれない場所だ」
塀の上を、折れた尻尾の先が、すっと消えた。
オレオは、電柱の影から一歩、踏み出した。
足の裏に、知らない夜の冷たさが伝わった。
次回予告
カグラに連れられ、夜の繁華街へ向かうオレオ。ショーウィンドウの光の中、狭いガラスの檻に閉じ込められた仔犬たち——明るすぎる場所の、暗い秘密。
次回『第3話 檻のなかで鳴く子』。 値札のついた、小さな命たちへ。
オレオの旅のおとも🐾
猫の脱走は、想像よりずっと簡単に起こります。旅立つオレオのように、一度外に出た猫が自力で帰れる確率は、けっして高くありません。
災害時に必要なものがセットになったキャリーバッグ。準備しておくと安心だよ。↓
玄関、ベランダ、窓は脱走の危険あり。脱走防止対策で安心を。↓
愛猫が見つからない時にこれがついているとすぐ見つけられる。約10gと軽いのが特徴。↓
📖 **連載『テイルズ・オブ・オレオ』全10話・毎週土曜20時更新。** 次回『檻のなかで鳴く子』もお楽しみに。


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