
本編
オレオは、籠の外の匂いをはじめて知った。
いつも嗅いでいる、洗いたてのシーツと、ほうじ茶と、人間のふかふかの掌の匂い。それとはまるで違う、濡れた段ボールと、古い毛布と、少し甘ったるい何かが混ざった匂い。鼻の奥がちくりと痛んだ。
飼い主の亜希がキャリーの扉を開けたのは、見たこともない古い一軒家の軒先だった。夕暮れが蜜色に傾いて、庭の雑草の先まで金色に光っていた。
「オレオ、ちょっとだけ外に出ていいよ。でも、ここから動かないでね」

亜希は小声でそう言うと、玄関に置かれた段ボール箱に駆け寄った。中にはタオルと、小さなご飯の袋と、注射器のようなものが詰まっている。別の人間が三人、手袋をつけて家の奥へと入っていく。オレオの首輪の鈴が、からん、と小さく鳴った。
——ここは、いったい、どこなんだろう。
首を伸ばした瞬間、家の奥からうすい鳴き声が聞こえた。耳を澄ますと、ひとつではなかった。ふたつ、みっつ、もっと。弱っていて、でも確かに、猫の声だった。
「……人間、はじめて見るの?」
背後から、低く、乾いた声がした。
振り返ると、軒下の影から、やせ細った茶トラの猫が静かに顔を覗かせていた。夕暮れの金色が、その薄い毛並みに溶けこんで、燃えさしのような色をしていた。あばらが浮き、耳の先が片方欠けている。だが、その瞳は澄んでいた。澄みすぎて、底のほうに冷たい火が見えた。
「ぼくは、オレオ。いつもは家の中にいて」
「家の中」と、ビスコはくり返した。声の尻尾が、ほんの少しだけ震えた。「ふうん。——わたしは、ビスコ。ここで生まれて、ここで、ずっと」
ビスコは、欠けた耳を伏せた。
「この家には、三十匹の猫がいる。……いた。数えるのを、やめたんだ」
オレオは息を呑んだ。自分の家は、亜希とふたり暮らしだ。多くても、散らかった日の亜希と、亜希の本と、自分と、三人と勘定してちょうどいい。三十匹というのは、猫のかぞえかたではないような気がした。

「ご飯、あるの」
「あるときもあった。ないときも、あった」
ビスコは雑草の先を見つめた。風が吹いて、黄金色がさらさらと揺れた。
「でも、いまはもう、関係ない。わたしたちは、外に出られる。あの人たちが、助けに来てくれたから」
家の奥から、亜希たちが、タオルにくるまれた小さな猫を一匹ずつ運び出してくる。しっぽを力なく垂らした三毛、黒く煤けた子猫、鼻先に傷のある老猫。その一匹一匹に、亜希は短く、名前を付けていた。「きみは、ハル。きみは、ツキ。きみは——ノゾミ、かな」
名前。オレオには、生まれたその日から「オレオ」という名前があった。だから名前は、空気や水のように、はじめからあるものだと思っていた。
でも、ここでは違う。名前は、いま、手渡されていた。タオルと一緒に、ご飯と一緒に、「もう、だいじょうぶだよ」と一緒に。
オレオの鼻が、ぴくりと動いた。涙、ではない。でも、それに近い匂いがした。亜希から。ビスコから。自分の中から。
「なあ、家の中の猫」
ビスコがぽつりと言った。
「風の便りって、知ってるか」
「かぜの、たより?」
オレオが首を傾げると、ビスコは軒下の闇をじっと見つめたまま言った。
「動物たちのあいだで流れる、噂だ。海の向こうから、山の向こうから、誰かが運んできて、誰かが次に渡す。わたしたちに新聞はないから、噂が、全部だ」
風が、また吹いた。
「最近の風はね、ずっと同じ名前を運んでくる」
ビスコの声が、ほんの少しだけ低くなった。

「ジークライオン。——被災地で暴れまわっているらしい。地域猫が消える。保護犬も消える。みんな、そのライオンに攫われているんだって」
オレオは、自分の小さな首輪の鈴が、風にも鳴らないほど、静かに止まっているのに気づいた。
「わたしはね」ビスコは夕暮れの空を見上げた。「信じていない。でも、確かめに行きたい」
救助車のエンジン音が遠くから近づいてくる。亜希が、オレオを呼ぶ声がする。キャリーの蓋が、優しく開いている。
オレオは、ビスコをふり返った。欠けた耳。冷たい火のともる瞳。あの瞳は、自分がずっと知らなかった世界を、もう知っている瞳だった。
「ビスコ」
自分でも驚くほど、小さく、けれどはっきりとした声が出た。
「その噂、ぼくも、確かめに行きたい」

ビスコの瞳が、ほんの一瞬、やわらかく揺れた。笑ったのかもしれなかった。
籠の外の匂いは、思っていたよりも、ずっと複雑で、ずっと広かった。
そして、ずっと、助けを待っていた。
次回予告
亜希の腕の中、保護された猫たちを見送りながら、オレオの胸にはビスコの声がずっと残っていた。「風の便り」を確かめるため、オレオは家を抜け出す決意をする——。
次回『第2話 脱走』。 閉じた窓の、その向こうへ。
オレオの旅のおとも🐾
オレオたちが出会った多頭飼育崩壊の現場は、実は日本中で起きている現実の問題です。今日あなたにできる、小さな一歩はここから。
📖 **連載『テイルズ・オブ・オレオ』全10話・毎週土曜20時更新。** この物語を気に入ってくださったら、ブックマーク&シェアで応援していただけると嬉しいです。


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