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第1話「籠の外の世界」

テイルズ・オブ・オレオ
管理者のプロフィール
[この記事を書いた人]
jyosui

2023年10月末にペットショップで仔猫との運命的な出会いをきっかけにどっぷり猫沼に浸かってしまったアラフィフのサラリーマンおじさん。猫のことをもっとよく知りたいと、譲渡会・猫イベント・地域猫セミナーなどに積極的に参加。ねこ検定初級を受検するなど知識向上にも取り組み中。「世界中の猫を幸せにしたい!」を夢に、保護猫カフェ経営を目指して日々猫活中。

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本編

オレオは、籠の外の匂いをはじめて知った。

いつも嗅いでいる、洗いたてのシーツと、ほうじ茶と、人間のふかふかの掌の匂い。それとはまるで違う、濡れた段ボールと、古い毛布と、少し甘ったるい何かが混ざった匂い。鼻の奥がちくりと痛んだ。

飼い主の亜希がキャリーの扉を開けたのは、見たこともない古い一軒家の軒先だった。夕暮れが蜜色に傾いて、庭の雑草の先まで金色に光っていた。

「オレオ、ちょっとだけ外に出ていいよ。でも、ここから動かないでね」

亜希は小声でそう言うと、玄関に置かれた段ボール箱に駆け寄った。中にはタオルと、小さなご飯の袋と、注射器のようなものが詰まっている。別の人間が三人、手袋をつけて家の奥へと入っていく。オレオの首輪の鈴が、からん、と小さく鳴った。

——ここは、いったい、どこなんだろう。

首を伸ばした瞬間、家の奥からうすい鳴き声が聞こえた。耳を澄ますと、ひとつではなかった。ふたつ、みっつ、もっと。弱っていて、でも確かに、猫の声だった。

「……人間、はじめて見るの?」

背後から、低く、乾いた声がした。

振り返ると、軒下の影から、やせ細った茶トラの猫が静かに顔を覗かせていた。夕暮れの金色が、その薄い毛並みに溶けこんで、燃えさしのような色をしていた。あばらが浮き、耳の先が片方欠けている。だが、その瞳は澄んでいた。澄みすぎて、底のほうに冷たい火が見えた。

「ぼくは、オレオ。いつもは家の中にいて」

「家の中」と、ビスコはくり返した。声の尻尾が、ほんの少しだけ震えた。「ふうん。——わたしは、ビスコ。ここで生まれて、ここで、ずっと」

ビスコは、欠けた耳を伏せた。

「この家には、三十匹の猫がいる。……いた。数えるのを、やめたんだ」

オレオは息を呑んだ。自分の家は、亜希とふたり暮らしだ。多くても、散らかった日の亜希と、亜希の本と、自分と、三人と勘定してちょうどいい。三十匹というのは、猫のかぞえかたではないような気がした。

「ご飯、あるの」

「あるときもあった。ないときも、あった」

ビスコは雑草の先を見つめた。風が吹いて、黄金色がさらさらと揺れた。

「でも、いまはもう、関係ない。わたしたちは、外に出られる。あの人たちが、助けに来てくれたから」

家の奥から、亜希たちが、タオルにくるまれた小さな猫を一匹ずつ運び出してくる。しっぽを力なく垂らした三毛、黒く煤けた子猫、鼻先に傷のある老猫。その一匹一匹に、亜希は短く、名前を付けていた。「きみは、ハル。きみは、ツキ。きみは——ノゾミ、かな」

名前。オレオには、生まれたその日から「オレオ」という名前があった。だから名前は、空気や水のように、はじめからあるものだと思っていた。

でも、ここでは違う。名前は、いま、手渡されていた。タオルと一緒に、ご飯と一緒に、「もう、だいじょうぶだよ」と一緒に。

オレオの鼻が、ぴくりと動いた。涙、ではない。でも、それに近い匂いがした。亜希から。ビスコから。自分の中から。

「なあ、家の中の猫」

ビスコがぽつりと言った。

「風の便りって、知ってるか」

「かぜの、たより?」

オレオが首を傾げると、ビスコは軒下の闇をじっと見つめたまま言った。

「動物たちのあいだで流れる、噂だ。海の向こうから、山の向こうから、誰かが運んできて、誰かが次に渡す。わたしたちに新聞はないから、噂が、全部だ」

風が、また吹いた。

「最近の風はね、ずっと同じ名前を運んでくる」

ビスコの声が、ほんの少しだけ低くなった。

ジークライオン。——被災地で暴れまわっているらしい。地域猫が消える。保護犬も消える。みんな、そのライオンに攫われているんだって」

オレオは、自分の小さな首輪の鈴が、風にも鳴らないほど、静かに止まっているのに気づいた。

「わたしはね」ビスコは夕暮れの空を見上げた。「信じていない。でも、確かめに行きたい

救助車のエンジン音が遠くから近づいてくる。亜希が、オレオを呼ぶ声がする。キャリーの蓋が、優しく開いている。

オレオは、ビスコをふり返った。欠けた耳。冷たい火のともる瞳。あの瞳は、自分がずっと知らなかった世界を、もう知っている瞳だった。

「ビスコ」

自分でも驚くほど、小さく、けれどはっきりとした声が出た。

「その噂、ぼくも、確かめに行きたい」

ビスコの瞳が、ほんの一瞬、やわらかく揺れた。笑ったのかもしれなかった。

籠の外の匂いは、思っていたよりも、ずっと複雑で、ずっと広かった。

そして、ずっと、助けを待っていた。

次回予告

亜希の腕の中、保護された猫たちを見送りながら、オレオの胸にはビスコの声がずっと残っていた。「風の便り」を確かめるため、オレオは家を抜け出す決意をする——。

次回『第2話 脱走』。 閉じた窓の、その向こうへ。

オレオの旅のおとも🐾

オレオたちが出会った多頭飼育崩壊の現場は、実は日本中で起きている現実の問題です。今日あなたにできる、小さな一歩はここから。

📖 **連載『テイルズ・オブ・オレオ』全10話・毎週土曜20時更新。** この物語を気に入ってくださったら、ブックマーク&シェアで応援していただけると嬉しいです。

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