
前回までのあらすじ
譲渡会の隅にまぎれこんでいた「業者」のテント。同じ消毒剤で洗われた仔犬たちの匂いにタルトが気づき、三匹は業者の後をつけることにした。昼の希望の広場から、夜の追跡へ。
本編
業者の軽トラックは、日が暮れると、芝生の広場を、静かに出発した。
荷台には、ぎっしりと布を被せた木箱。行き先は、町から車で三十分ほどの、倉庫街。

三匹は、人間に見つからないよう、側道の草むらを縫って走った。タルトの短い足が地面を蹴る音、ビスコの痩せた背中が夜風を切る音、オレオの鈴を押さえた肉球の音。三つの音が、ひとつの息になっていた。
倉庫街は、明かりが少なかった。看板もなかった。ただ、シャッターの下りた倉庫が、地平線まで続いていた。昼間なら、ただの寂れた工業地帯。夜になると、その「看板のなさ」そのものが、別の意味を持ち始める——誰にも覚えられないことが、ここでは仕事の一部なのだ、とオレオは直感した。
軽トラックは、奥から二番目の倉庫の前で止まった。
シャッターが、ごとごとと上がった。
中は、地下へ降りる階段だった。
「下からは、いい匂いが、ぜんぜん、しない」
タルトが、鼻をひそめた。
「薬と、汗と、絶望の匂い」
ビスコは、低く言った。
「わたしが、昔、嗅いだのと、同じ匂いだ」
オレオは、自分の小さな体を、目一杯、低く伏せた。
「——ぼくが、行く」
「——坊っちゃん?!」

「しっ、タルト、声」ビスコが静かに言った。「オレオ、理由は」
「ぼくは、文字が、読める。封筒の名前も、書類の印も、値札も、——どれが “繋がっている” か、見分けられるのは、ぼくだけだ。首輪の鈴は、外す」
オレオは、前足で、自分の首輪を、そっと、外した。
首輪なしの首は、夜風を直接受けた。頼りないほど、軽かった。亜希の匂いが、遠くなった。
かわりに、タルトがくれた紺色のマントを、首もとで、もう一度、結び直した。白黒のハチワレ柄は、ショーウィンドウの光の下では、どうしても目立つ。紺色のマントが、その白い胸元を、ちょうど隠してくれた。
「マント、ちょうどいい」ビスコは、低く言った。「子ども人間が、どこかで落とした布きれに見える。警戒の、ひと段下を、くぐれるかもしれん」
「三十分で戻る。もし戻らなかったら、ジークライオンを呼びに行って」
ビスコは、一瞬、目を閉じた。
「——わかった。ただし、これを」
ビスコが、前足で押しつけてきたのは、譲渡会の帰りに拾ってきた、小さな、紙切れだった。ボランティアが配っていた、動物愛護団体の連絡先が書かれたチラシだ。
「もし本当にやばいもの見たら、その場所に、このチラシを置いてこい。それだけで、あとは、風の便りが、人間のところへ届く」
オレオは、紙切れを、そっと口に咥えた。
地下へ降りる階段は、冷たかった。
階段の下には、むき出しのコンクリートの広間があった。配管がむきだしで、天井から裸電球が、等間隔で吊るされていた。光は、暖かくなかった。冷蔵庫の中の光みたいに、白かった。

広間の中央に、長机。机の上に、並んだケージ。ケージの中には、震える仔犬、仔猫、仔うさぎ。
机のまわりには、人間が何人か、メモ板を持って立っていた。
——値段が、ささやかれていた。
「この柴、三十」
「マンチカンは、今日は高いぞ。血統書ありで十八」
「ペルシャの、顔の歪んでない奴、一匹残ってる? 返品があってな」
返品、という言葉が、オレオの、小さな耳を、殴った。
——返品?
命が、返品されるのか?
オレオは、ケージの中を、一つずつ、目でたどった。ペルシャの子猫が、自分の前足の毛を、ひっきりなしに噛んでいた。ストレスで、毛が抜けるまで噛む、あれは、そういう仕草だった。柴犬の仔は、眠っていた。けれど、夢の中で、小さく、前足を動かしていた。走る夢を見ていたのかもしれない。走れない場所で、走る夢を。
オレオは、自分のしっぽが、怒りで震えているのに気づいた。生まれて初めて感じる震え方だった。
机の下の影に身を潜め、オレオは、広間の奥を観察した。一人の男が、大きな茶封筒から、書類を取り出していた。封筒には、見覚えのあるマーク——「昼の業者テント」と、同じ書体の、同じロゴ。そして書類の隅に、別のロゴも。悪徳ブリーダー施設、の印——ビスコが、初めて会った夜、声を震わせながら教えてくれた、丸の中の星印。
——繋がってる。
オレオは、咥えた紙切れを、そっと、机の足元に、置いた。
風の便りよ、届け。
その瞬間、広間の空気が、ぴたりと止まった。
机の上の一人が、はっと、床を見た。
オレオの、小さな尻尾の先が、影から、一ミリだけ、はみ出していた。

「——誰だ、そこに」
低い、人間の声。
オレオは、身体の奥で、一度だけ深く息を吸った。
走る。
次回予告
闇の市場から命がけで脱出したオレオたちが次に向かうのは、すべての元凶——郊外の、悪徳ブリーダーの繁殖施設。そこで生まれ育ったビスコが、過去と向き合う夜が来る。
次回『第8話 産屋の秘密』。 ビスコの、はじめての涙。
オレオの旅のおとも🐾
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