
前回までのあらすじ
悪徳ブリーダー施設の前でビスコは自分の過去を語った。ジークライオンが到着し、「お前は外で地図を描いてくれ」と告げる。愛護団体と人間側の準備は、すでに進んでいた。作戦は、明日の夜明け。
本編
——翌。
夜明け前の空は、薄紫だった。
雑木林の端で、ビスコは、地面に、小枝で、ていねいに地図を描いた。

「ここが、母さんたちが、子を産まされる場所」
「ここが、病気の子が、連れて行かれる、別の小屋——みんな、行ったきりになる」
ジークライオンが、低く、ひとりごとのように、つぶやいた。
「——隔離棟、と人間が呼ぶやつだな」
「ここが、ご飯の管が、もとから、ぎゅっと、止められる、ところ」
ジークライオンが、また、低く、つぶやいた。
「——給餌系の、元栓、か」
「ここが、唯一の、裏口。鉄のドアのあいだに、古い布きれが、噛ませてある。音を立てずに開けるコツは、下から、斜めに、押し上げること」
ビスコの小枝は、地図のいちばん端に、もう一本、細い線を引いた。
「これは——」と、ビスコ。
「売り物にならなかった子と、——『もう用済みだ』と言われた、母さんたちが、運ばれていく道」
ジークライオンは、すぐには、答えなかった。
琥珀の瞳が、ほんの一瞬、遠くを見た。
喉の奥で、低く、ふう、と、ひとつ、息が落ちた。
「——……そうか」
ジークライオンが、その細い線を、長い前足で、しずかに、なぞった。
「——海への、積み荷ルート、か」
ジークライオンは、自分の中で、その線に名づけるように、低く、つぶやいた。
ビスコは、その線の先を、黙って見つめた。
「どこへ運ばれるのか、わたしは、知らない。——ただ、この線の先に行った子は、誰も、戻ってこなかった」
ジークライオンの黒いたてがみの、ほんの一筋が、夜露に、ぴり、と震えた。
「——海辺、か」
ビスコは、答えなかった。ただ、もう一度、欠けた左耳が、ぴくりと、揺れた。
ビスコは、描き終わると、ふう、と息を吐いた。
「わたしにできるのは、ここまでだ」
「十分すぎる」
ジークライオンは、その地図を、大きな前足で、そっと覆った。
作戦は、同時多発で始まった。

フェンスの正面から、動物愛護団体「ヤスミアニマルレスキュー」の白いワンボックスと、警察車両が、静かに、ライトを消したまま近づいた。人間たちは、段ボールと毛布と、搬送用ケージを、車からたくさん降ろしていた。
そして、同時刻——
雑木林のあちこちから、動物たちが集まってきていた。
タヌキ。キツネ。カラス。野良猫たち。カグラの姿も、そこにあった。繁華街から、夜を徹して——どうやって、こんなに早く、とは、誰も訊かなかった。折れた尻尾が、オレオに向かって、ひと振り、されていた。
「風の便り、聞いたぜ、坊主」
カグラの低い声が、あの夜の電柱の下と、まったく同じ温度で響いた。
「あのペットショップの仔犬たちも、もう一匹も、仕入れさせねえって、ここから発信するんだろう?」
オレオは、深く頷いた。
合図は、ジークライオンの、短い唸りだった。
ガウ、と、腹の底に響く、短い、しかし街じゅうに届くような声。
人間が、正面の鉄扉を切った。

動物たちが、裏口と、給餌管の元栓と、脱出経路の要所に、散った。タルトは、鉄扉のすぐ内側で、ケージから怯えて出ない犬たちを、きゃんきゃん明るく鳴いて誘い出した。「こっち!! こっちだよ!! 外!! 外にでるよ!!」
ケージの扉が、次々に、開かれていった。
錆びた蝶番の軋む音。毛布に包まれて運び出される仔犬。両手ですくい上げられる仔猫。口をあけて空を見上げる老犬。その老犬は、人間の腕の中で、生まれてはじめて、空の色を、ちゃんと見たのかもしれなかった。
人間のスタッフは、一匹一匹に、マジックで首のタグに「番号」ではなく「仮の名前」を書き込んでいた。ナツキ、ソラ、ミルク、タンポポ、ヒナタ。名前は、空気よりも先に、あたらしい呼吸を、この子たちに与えていた。
カラスが、一番高い窓枠から、鋭く、三度、鳴いた。残りのケージの位置を、奥に進むレスキューに知らせる合図だった。
騒ぎを聞きつけ、施設の奥から、作業服の人間が走って出てきた。
けれど、そこには、すでに、警察と、記者と、そして——動物たちが、ずらりと並んでいた。
タヌキが、キツネが、カラスが、野良猫が。そして巨大なジークライオンが、前足を組んで、見下ろしていた。

「もう、終わりだ」
ジークライオンは、人間の言葉ではなく、獣の言葉で、静かに言った。作業服の男は、その意味が分からなかったはずだ。けれど、その空気は、確かに、伝わった。
男は、ゆっくりと、両手を、上げた。
——けれど、その瞬間、施設の裏手で、別の人影が動いた。
書類の束を抱えた、背の高い別の男。あきらかに、ここの責任者。警察車両が気づくより早く、裏の雑木林に向かって、走っていた。
——男が走っていく方角は、海のほうだった。ビスコの欠けた左耳が、その方角を追って、ぴくりと、一度、揺れた。
タルトが、ぱっと身構えた。「待て!! 逃げるな!!」
ジークライオンは、ぐ、と喉を鳴らした。追うか、追わないか——巨大な前足の腱が、一瞬、張り詰めた。
「ジークさん」カグラが、低く、静かに言った。「あれ、追うか?」
ジークライオンは、追わなかった。
体の向きを、くるり、とケージのほうへ戻した。
「——追えば、一匹、救う手が減る。今日のおれは、あの男より、ここの四十いくつの命を、先に選ぶ」
カグラは、ふん、と鼻を鳴らした。咎める鼻息ではなかった。納得した鼻息だった。
オレオは、見ていた。
ジークライオンの大きな肩が、ほんの、ほんの少しだけ、震えていた。——逃げる男を、見逃す側の震えだった。完全な勝利ではない。何かを、諦めた者だけが、するふるえ方を、オレオは、ここで、はじめて、獣の体から、読み取った。

空が、紫から、淡い桃色に、変わっていく。
オレオは、ビスコの横に、そっと、座った。
ビスコは、解放されていく犬猫たちを、一匹ずつ、目で数えていた。自分の記憶の中の、名前もつけられなかった兄弟たちに、いまここで、新しい数字を与えるように。
一匹、二匹、三匹——ビスコの目は、数を追うのをやがてやめた。数字は、命のためにあるのではないと、彼の中で、なにかが、ゆっくり、整理されていった。命は、数ではなく、一つずつの朝だ。今日、四十いくつの朝が、はじめて、柵の外に、生まれた。
「——代わりに、生きて出てきた」
ビスコは、小さく、呟いた。
「あの子たち、ぜんぶ、生きて、出てきた」
朝日が、雑木林のてっぺんに、ぴん、と刺さった。
タルトが、短い前足で、地面を、ぱたぱた、と叩いた。
「ね!! 坊っちゃん!! ぼくたち、いま、地球のまんなかに、いる感じ、しない!?」
オレオは、笑った。
笑うしかなかった。
次回予告
救出された動物たちは、譲渡会へ。オレオは、あの網戸の、あの家へ。そして、ビスコ、タルト、ジークライオンは、また次の土地へ——それぞれの朝が、やってくる。
次回(最終話)『第10話 それぞれの朝』。 帰る場所と、行く場所の、物語。
オレオの旅のおとも🐾
夜明けを待つのではなく、夜明けを起こすために、いま、できること。
📖 **連載『テイルズ・オブ・オレオ』全10話・毎週土曜20時更新。** 次回、ついに最終話。


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